Wittgenstein
Contents
- 003 比べるのは悪い癖だ
- 004 わたしたちは論理的に考えるが、考えたことが正しいとは限らない
- 009 常識の中に逃げるな
- 011 問題は必ず解決できる
- 012 理解とは見晴らしのよさのこと
- 013 「たら、れば」で考えることから悲劇が始まる
- 014 虚栄心が思考を妨げる
- 015 帰納法を過信するな
- 022 現実と思っているものは想像にすぎない
- 023 人はみな自分の感性と考え方の囚人だ
- 031 わかりやすい説明とは細かい説明ではない
- 052 言葉ではなく、沈黙によって表現できる
- 053 簡潔な文章とは短い文章のことではない
- 054 説得に見えない説得の方法
- 055 うまく伝わらないなら 言い方を工夫せよ
- 056 言葉を革新すれば世界も変わる
- 057 暴力の世界すなわち辞書
- 058 言葉には辞書に載っていない意味がたくさんある
- 059 「幸せだ」と言える人は確かに幸せだ
- 061 無意味は無価値ではない
- 069 相手の立場にはなりきれない
- 077 悪があるからこそ、善がある
- 078 「本当に欲しいもの」は別にある
- 089 自尊心は体に支えられている
- 094 気分と感覚はまったくの別物
- 095 気分は考え方次第で変えられる
- 096 「信念」「希望」「期待」という言葉を使う人は逆境にある
- 097 動機や理由は後づけの説明にすぎない
- 098 内心は本当に重要なのか?
- 099 勇気なくして生きていくことはできない
- 100 この人生を勇猛果敢に闘え
- 105 情熱だけが生活を変えることができる
- 107 そんな小さなことに振り回されて
- 110 どのように生きるのかを考え続けよ
- 117 人生を変えたいなら 仕事でも環境でもなく態度を変えよ
- 119 問題を解決したいなら、生き方を変えよ
- 120 自分は日々コロコロ変わっている
- 125 人生については正確に問うことも答えることもできない
- 126 人生の問題は思わぬ形で解かれる
- 127 人生の問題は 最高の科学者でも解けない
- 128 時間の少なさを嘆くな
- 144 人は好きなものにしょっちゅう触れていたがる
- 146 多くの人の視線が注がれたものが価値を生む
- 150 行動に理由はない
- 154 才能が人にわかるようでは まだ薄っぺらだ
- 155 天才は光を一点に集中させる
- 156 時代の先行者は やがて時代に追い越される
- 165 ありふれたものに神秘を見出せ
003 比べるのは悪い癖だ
比べる癖はよくない。
比べて価値の優劣を決めたがる悪い癖はもうやめよう。
どんな人にもどんなものにも、それぞれ自分にとっての価値や美しさがあるのだから。
たとえば、デザインのすぐれたソファと、恋人と行く劇場の入場券。この二つの価値を比べることは途方もなくナンセンスだ。
お金で買えるものにしてもこういうふうに比べることなんかできない。だから、わたしたちのたいせつなものに関しては、言うまでもないことだ。
004 わたしたちは論理的に考えるが、考えたことが正しいとは限らない
わたしたちは論理的に考える。なぜならば、考えるときに使う道具である言葉とその文法はもともと論理的なものだからだ。
だからといって、論理的にいつも正しく考えることができるとは限らない。考えた一文ずつは確かに論理的だけれども、次の文とのつながりがまちがっている場合があるからだ。
それにまた、考えたことがいつも現実に即しているとも限らない。現実というものは人が考える範囲よりも、言葉がおおう範囲よりも、ずっと広く多彩な変化をするからだ。
009 常識の中に逃げるな
生きている限り、さまざまな問題が立ち現れてくるものだ。その問題と真正面から取り組め。格闘せよ。決して逃げるな。
常識を持ち出してきて、その問題の解決としてしまうな。常識にしたがえばこうだから、という言い訳をするな。誰もが知っている常識はその場の人々をなだめはするが、実際の解決にはならない。
だから、問題の泥沼にどっぷりとつかり、じたばたしながら必死に闘え。
そしてようやく勝って、自力で泥沼から這い出るんだ。
011 問題は必ず解決できる
そこに問題があるならば、必ず解決できる。
なぜならば、それを問題としてわたしたちがもうつかまえているからだ。
どういう問題にしても、要は小さな問いの集まりだ。そこに問いがあるならば、とっかかりがあるということであり、その場所から探っていくことができる。
探っていくことができるならば、そこには新しい発見があり、そこから問いひとつひとつの解決が見出されてくる。そうして、全体としての問題の解決へたどっていけるからだ。
012 理解とは見晴らしのよさのこと
「なるほど、わかった」と声に出して言うほどの理解が起きるとき、わたしたちはなんだか見晴らしのいい小高い丘に立ったような気分を覚える。
この気分はわたしたちの理解を現実的に表現している。というのも、わかったと確信が持てたとき、これまでのいくつもの曖昧な点がつながって意味と役割を持って生まれ変わり、そのために問題の構造の全体が見渡せた感触を得るからなのだ。
つまり、この俯瞰の感じがわたしたちに風景の俯瞰と同じ気分を与えてくれるのだ。
013 「たら、れば」で考えることから悲劇が始まる
起きた事柄に対して、「もし…だったら、こうではなかったろう」とか、「これがこうであれば、こんなことは起きなかったはずだ」と、いったん考え始めたとたん、なんと多くのことが、痛ましいこと、不運や悲劇に変わってしまうものか。
014 虚栄心が思考を妨げる
ちゃんと考え続けていくことを妨害するのは、外の雑音や話し声ではない。
赤ん坊の泣き声でもない。砲弾の音でもない。
まともに、精確に、慎重に、どこまでも深く、考えていくことをいとも簡単に妨げるのは、なんとかして功成り名を遂げたいという気持ちだ。
一目置かれたり、尊敬されたり、ちやほやされたいという心根だ。自分だけは特別だという思い上がった気持ちだ。みんなからよく見られていたいという気持ちだ。
015 帰納法を過信するな
くり返し起こったことや事例に共通する点を見つけ、そこに一般的なものを見つけ出すのが帰納法だ。
たとえば、これまで見てきた猫はみんなネズミをつかまえたから、どんな猫でも必ずネズミをつかまえるものだという一般的結論を出すことだ。
しかし、こういう帰納法はちっとも論理的ではないし、確度も高くはない。
なぜなら、これまでにくり返し起こったことが明日もまたくり返されるとは決まっていないからだ。
そして何をどれと結びつけて共通点とするかというのは、人の経験と心理によるものにすぎない。
こうして人は帰納法に頼るばかりに、新しい事態に対処できなくなったり、安心しながら以前と同じ手法を用いて商売に失敗したりするのだ。
022 現実と思っているものは想像にすぎない
まったくの漆黒の闇の中に置かれた薔薇の花は、本当に赤いのだろうか。
その薔薇が本当に赤いかどうかわからないのに、わたしたちはその薔薇は赤いと考え、想像してしまう。
他の事柄についてもわたしたちは、それはまったくそうであるにちがいないというふうに、自分の想像や考え通りに現実が存在していると思ってしまうのだ。
023 人はみな自分の感性と考え方の囚人だ
人はみな、監獄の中の囚人だ。その監獄とは、自分の感性と癖のある考え方のことだ。
自分の感性がとらえたものをありのままの世界の様子だと固く信じ込んでいる。
自分の癖のある考え方と似たような考え方を他の人もするのがあたりまえだと思い込み、少しも疑うことがない。
031 わかりやすい説明とは細かい説明ではない
わかりやすく説明するというのは、事細かに丁寧に説明することではない。短い時間で相手が理解したと思うように説明することが、わかりやすさを生むのだ。
では、どうすれば相手が理解したと思うようになるのか。
それは、その事柄について相手がすんなりと見渡すことができたという感触を持つことだ。つまり、事柄の全体の見通しのよさが感じられるような説明の仕方が必要になる。
すると、相手はその事柄を自分の手でつかむことができたという感覚、すなわち把握できたという感覚を持つことができる。完全ではないにしても、それが理解の第一歩になる。
052 言葉ではなく、沈黙によって表現できる
どうしても言葉にはできないことがある。そんなとき人は、言葉を使わなくても沈黙によって表現できる。
053 簡潔な文章とは短い文章のことではない
表現を簡潔にしようと思い、できるだけ言葉を削って文章を短めにしようとする。しかし、言葉の数を物理的に短くしたとしても、それで表現が簡潔になったわけではない。
文章は他人に読んでもらうものだ。だから、簡潔になったかどうかはたんなる短さでは判断できない。むしろ、少し文章を長めにしたほうがかえって過不足がなくなり、読者が読みやすくなる場合も往々にしてあるのだ。
054 説得に見えない説得の方法
さあこれから説得してやろうとする意気ごみや態度を見せると、相手はかえって説得されまいとして身構えるものだ。それは説得の力をとても弱めてしまう。
もっとも簡単なのは、説得しているうちに相手を納得させてしまうという形をとる説得の方法だ。
そのとき説明に使うもっとも強力な言葉は、「本当はこういうことだったのだ」「あからさまに言えば、これはこういうことでしかないのだ」という断定である。
055 うまく伝わらないなら 言い方を工夫せよ
翻訳とは、ある言語の文章を別の言語の文章にたんに置き換えることではない。そうではなく、文章の意味内容のみを別の言語で言い表すことだ。
このことは翻訳だけの本質ではない。このことは、誰かに何かを伝えることの本質であり、また同時に理解することの本質でもある。
だから、わたしたちの言ったことが相手にうまく伝わらないならば、言い表し方を工夫しなければならない。
また、自分がうまく理解できないと感じるならば、相手の言葉にこだわるのではなく、発言されている内容の意味や気持ちを汲み取るようにしなければならないだろう。
056 言葉を革新すれば世界も変わる
こんな腐った現状を一撃で打破したいのなら、古い世界におさらばして新しい世界の扉を開けたいのなら、自分が見聞きする言葉の中身を入れ替えてしまえ。
どんな言葉も、その中身、その概念は、その時代の文化・風潮・流行・価値観・政治的規範に染めあげられているものだ。だから、そのままの中身でその言葉を使い、かつ考えれば、やはりどうしても他の人々と同じ池の中で泳ぐことになる。
したがって、その場所を脱したいのなら、世間や自分の言葉の中身を自分で新しく見出し、新しい形で使っていくのがもっとも手っ取り早いのだ。そこに別の世界が拓けてくる。
057 暴力の世界すなわち辞書
それぞれの意味の微妙なちがいをはなから無視し、微塵の深さも洞察もなく、何もかもいっしょくたにして平たいパレットの上に死骸の標本のように並べてしまう暴力が猛威をふるっている世界がある。
その世界の名は辞書だ。
058 言葉には辞書に載っていない意味がたくさんある
社会の中で生きていくためにさまざまな言葉の意味を知りたいと思っている人に辞書を一通りそろえてやれば充分なのだろうか。
確かに、書かれた言葉でも話された言葉でも、辞書を引けばその意味がわかるだろう。それにしてもなお、その人は社会の中で過不足なく生きていくことはだいぶ難しい。
というのも、一つの言葉の意味はもちろん一つだけではないし、その社会の生活の中でいくつもの異なった意味が生まれてくるからだ。たとえば、「そうですね」がいつも賛成の意味だけではなく、場合によって拒否を意味する場合がある。
そういうふうに、言葉の意味はその生活の流れの中から生じてくるものなのだ。だから、辞書と文法の本さえあれば翻訳ができるというわけにはいかないのだ。
059 「幸せだ」と言える人は確かに幸せだ
「自分は幸せだ」
と口に出せる人は確かに幸せなのだ。
もし、誰かが「自分は貧乏だ」と言った場合、その人の資産状況をつぶさに調べてみれば、平均所得と比べて本当に貧乏かどうかを客観的に判断できる。
しかし彼が幸せかどうかは、そういうふうに客観的に判断できない。幸せかどうかというのは一般的基準がないからだけではない。
幸せという言葉は、何かを意味する言葉だけではないからだ。では、幸せという言葉は何だというのか。幸せという言葉はもはや言葉ではなく、一種の叫びやアクションのようなものだからだ。
幸せという言い方は、喜びで反射的に声を出すときの声と同じものなのだ。
061 無意味は無価値ではない
わたしたちはふだん、無意味という言い方をしばしば使う。
「これは無意味だ」「無意味なことをしやがって」「無意味な時間を送ってしまった」
しかし、どういうふうな言い方であろうとも、無意味とは「この場においては効果的ではない」とか、「今この場のことのことについては、さほど有用ではない」というほどのことを指しているのだ。無意味とは無価値という意味ではないし、人生にとってまったく無駄という意味でもない。
意味はその場によっていくらでも変わりうる。ここでは無意味だとされるかもしれないが、別の場ではとても意味あることになるのだ。
069 相手の立場にはなりきれない
「歯が痛い人の気持ちはよくわかる。自分がその人の立場になってみればよくわかるものだ」
そうは言うけれど、相手の立場になってみるとはどういうことだろう。
自分が何から何までその人になってしまうということだろうか。そんなことは可能だろうか。
だから、相手の立場になってみるというのは、「この自分」をその人の立場に置いてみるということではないのか。つまり、その人になったわけではない。その人自身では決してなく、その人になったふりをした自分が過去の歯の痛みを思い出しているということだ。
077 悪があるからこそ、善がある
善があるから、悪がある。善がなければ、そこに悪はない。
たとえば、私はそのつど悪いことをする人間になれる。ただしそのときは、善いことをする人間になれる余地がある限りにおいて、私は悪いことを選んでいるのだ。
善いこともできる可能性のない世界では、何が悪いことなのか判定のしようがなくなるからだ。暑さと寒さの関係のように。
078 「本当に欲しいもの」は別にある
どのように欲しがっているのか。どんなふうに求めているのか。それをじっくりと観察してみればいい。
すると、何を欲しがっているのかわかってくる。
というのも、人は欲しがっているものを本当に欲しいのではなく、別のものを手に入れたいと渇望しているからだ。たとえば、大型犬を欲しがっている人が本当に望んでいるものは自分が支配する力だというふうに。
089 自尊心は体に支えられている
人を支えている尊厳。たとえば、自尊心や威厳といったもの。それはたんに崇高に見える概念ではない。
それどころか、自分の体が満ち足りていて正常な場合にのみ、そのような概念を人は持ちえるのだ。
疑うのならば、そういった概念を持っている人を縛りつけ、その指、両足、鼻、耳などを削ぎ落としてみればいい。いったい、彼の自尊心や威厳はいつまで前のように保たれているだろうか。
094 気分と感覚はまったくの別物
気分と感覚を、わたしたちは往々にして混同する。けれども、この二つは異なる。
怒り、喜び、憂鬱、落ち着き、恐れ、憎しみ、等々は気分だ。これらは涙とか緊張という体の反応を呼び起こすことがあるものの、感覚そのものではない。
感覚は、その感覚が発生している体の場所や範囲をちゃんと指でたどって示すことができる。たとえば、痛みや痺れや濡れている場所を。また、その場所は広がっていくことがある。
気分は、それが起きている体の場所をはっきりと示すことができない。また、気分はその原因が自分の外にはない。二人が同じものを見ても、二人とも同じ気分になるとは限らない。
095 気分は考え方次第で変えられる
何を考えるかということと、どういう気分が生まれてくるかということは強くつながっている。
あるいは、何を考えるかで気分のありかたが大きく左右される。
恐ろしさ、悲しさ、楽しさ、おびえ、等々は何をどう考えるかということから生まれる。自分が見たり感じたりするものの姿がいびつだから恐ろしいと思うのではない。その相手から何か悪さをされるのではないだろうかと考えることで恐怖感が生まれる。
何も考えなければ、気分は生まれない。何に遭遇しても、ただ平然としていられる。
したがって、考えによって取りのぞくことができない痛みを消すことは難しいが、いやな気分を取りのぞくことは自分の考え方一つでできる。
096 「信念」「希望」「期待」という言葉を使う人は逆境にある
信念。希望。期待。これらは異なった言葉だけれど、どこか似ている。
それは、この三つの言葉の一つでも使う人は、そのとき心が何か壁のようなものに囲われた状況にあることをさらけ出しているからだ。
そして、遠い一点から少しだけ漏れてくるわずかな光にずっと眼差しを向け、いつかそこを通じて外側の世界に行きたいと願っている。
097 動機や理由は後づけの説明にすぎない
ある事柄について、誰かにその理由や動機を訊いたとしよう。そして、相手は理由や動機を答える。
しかし、相手が答えた動機や理由によって相手がそういう理由から行ったのだと単純に受け取ってはならない。
理由や動機というものは、誰かがそれについて質問してきたときに述べるものなのだ。つまり、一つの整理された釈明文、もしくは事後の正当化のための理路整然とした言い訳にすぎないものだ。
098 内心は本当に重要なのか?
「内心を打ち明けてほしい」
「心底どう思っているのか」
「腹の中で何を考えているのかわからない」
「胸の奥にある本当の気持ちはどうなのか」
わたしたちは、ふだんこんな言い方をする。いかにも、人の心には地層のようなものがあって、そのもっとも奥底にこそ、本当の気持ち、本心が隠されているかのような表現ではないだろうか。
あるいは、人は日常生活では社会的な演技によって自分の考えとは裏腹にふるまうのがふつうだから、こんな言い方をするようになったのだろうか。
それにしても、内心や胸の奥の気持ちといったものがそれほど重要なのだろうか。その人の表情や態度に表れているものよりも本当に重要だと考えていいのだろうか。
099 勇気なくして生きていくことはできない
この人生を渡っていくにあたって、どうしても必要なことがある。それは、自分の怖じ気心をなんとかして踏みつけ越えていくことだ。
ほんの少し怖じ気づくだけで、なんと多くのことが満足にできなくなるだろうか。だから、とにかく怖じ気心を克服し、そのうえで勇気を身につけなさい。
勇気なくして生きていくことはできない。いくら器用であっても、勇気がなければだめだ。勇気こそがチャンスを広げ、危機を救い、自信と能力を与えるからだ。
他人に勇気がないことを見破って嗤ったところで、自分の勇気が大きくなるわけではない。人の評価などするな。まず、勇気を自分自身の身につけて世に漕ぎ出していきなさい。
100 この人生を勇猛果敢に闘え
私は心から思う。真に生きようとするならば、この生を勇猛果敢に闘って生ききらなければならない。
この勇敢さの他はすべてためらいや腰抜けであり、臆病なことだ。日和見や手抜かりや臆病は怠惰である。そんな怠惰な生き方は、結局はこの自分をみじめこのうえない者にするではないか。
ちまちまとした楽しみやたまさかの僥倖にしがみついていてはならない。そんなみじめな生き方をしてはならない。真に、堂々と生きよ。
死を恐れずに突進していく兵士のように、渾身の力であますところなく闘いぬかなければならない。
105 情熱だけが生活を変えることができる
知恵や知識は、人の生活をきちんとさせることができない。なぜならば、でき上がった知恵とか知識は冷たいものだからだ。
人の生活を変える力を持つものはそういう冷たいものではなく、ふつふつと湧き上がってくる情熱だ。
107 そんな小さなことに振り回されて
人生の大部分を使ってしまっていいのか?
何についてくよくよしているのか。どんなことにいつまでも心をささくれだてているのか。その不快感や悩みの原因はいったい何なのか。
自分が思い悩んでいること、ずっと考えていることを、じっくりと見定めてみたほうがいい。その大きさをはっきりと測ってみたほうがいい。
すると、よくわかるだろう。いかにちっぽけなことかと。いかにささいなことかと。
そんな小さなことにばかり振り回されて、本当にきみの人生の大部分を使ってしまっていいのかい。
110 どのように生きるのかを考え続けよ
わたしたちが問われていることとは何か。人間の問題とは何か。
それは、どのように生きるか、ということだ。
人間の問題とは、このぬくもりの場所に安楽に座り続けることではない。
とどまらずに立ち上がり、歩みを止めずに、いつかは必ず迎えなければならない死の時に刻々と向かいながらも今をどう生きていくのか、ということだ。
117 人生を変えたいなら 仕事でも環境でもなく態度を変えよ
自分の人生を変えようという人は多い。そこで彼らは仕事や住む場所をがらりと変えたり、人間関係を変えたりするのだ。
しかし、彼らはなぜか人生改善のための最重要事項について気づいていない。
自分の人生を変えてよくするためには、自分の態度を変えなければならないということに。それが人生改善のもっとも有効な方法だということに。
119 問題を解決したいなら、生き方を変えよ
自分の人生にやっかいな問題があるのなら、それは次のことを語っている。すなわち、きみの今の生き方に合っていない、ずれているということだ。そのずれている部分に、今の問題がにょきにょきと生えてきているのだ。
では、どうすればいいのか。とにかく、今の生き方から脱すること。今の生き方をすっかり変えてしまうのだ。
すると、きみの生き方が本来の生き方にぴったりと合うようになる。そのときには問題はもう気化してしまい、消え去っている。
120 自分は日々コロコロ変わっている
歴史の本を読むと、ある時代には人々が魔女の存在など信じなかったのに次の時代にはすっかり魔女を信じてしまうということが起きたのにわたしたちは驚いてしまう。人はこうもコロコロと考えや行ないを変えてしまえるものか、と。
けれども、日頃の自分のことをよく思い起こしてみれば、必ず思いあたるだろう。この自分自身にしても、今までしていたことが今日はできなかったり、あるいはしたくなかったり、これまで考えもしなかったことを今はためらいもなく行っている場合が頻繁にあるのだから。
125 人生については正確に問うことも答えることもできない
疑いが生まれるならば、そこからは問いが生まれる。
問いが生まれれば、そこからは答えが生まれる。
しかし、これら疑い・問い・答えが生まれる場所は、いつも言葉と論理がある場所に限られる。言葉と論理がない場所から生まれるものには、疑い・問い・答えが生まれることがない。
つまり、人生について、魂について、あの世について、神について、わたしたちは正確に問うことも、正確に答えることもできない。
それらはただ、経験されるのみ。そして、説明することができない。したがって置かれるのは、ただ沈黙のみ。
126 人生の問題は思わぬ形で解かれる
数学の問題は、書いて解くことができる。それが解けたということを、誰もが確認できる。
人生上のもろもろの問題は、そういう形では、誰もがわかるように目に見える仕方で解かれることはない。
しかし、そのつどまったく別の形で、思わぬ仕方で、不意に、あるいはそっと、これまで考えもしなかった意味でのみ解かれるのだ。
127 人生の問題は 最高の科学者でも解けない
最高の頭脳を持った数学者と物理学者を呼んできさえすれば、今ここにある人生の問題がたちどころに解けるだろうか。
それは無理だ。なぜならば、数学者や物理学者が解ける問題はまったく純粋で冷たい問題だけだからである。
ところが、人生の問題は必ず時間を含んでいる。つまり、たくさんの変化が繰り返され、いつも流動しているような温かい問題なのだ。
128 時間の少なさを嘆くな
考えなければいいじゃないか。考えるから気になって仕方なくなる。そのイライラがいやだというなら、考えてはならない。考えなければ、そこには何もなくなる。
時間だって同じことだ。時間が足りないと悲しむな。時間は増えたり減ったりはしない。それなのに時間を何かの量のように考える癖があるから、時間があるだのないだのと思ってしまうのだ。
たいせつなのは時間の多さとか少なさじゃない。何をするかだ。何が起きて、それにどう自分が向き合うかだ。
出来事なしの時間なんて意味がないものなのだから。
144 人は好きなものにしょっちゅう触れていたがる
その人が何を本当に好んでいるのか、どうやって知るのか。
「ブラームスの曲が大好きなんだよ」という言葉か、「おお、なんてすてきなんだ。最高じゃないか」という感嘆の様子か、あるいは何かについてのその人の表情とか眼の輝きなのか、あるいはその人がくり返し話題にすることなのか。
その人が本当に好んでいるものは、その人が一人のときでもしょっちゅう触れたり見たり、接したりするものだ。
しばしば口にしている料理。読み続けている書物。古くなっても相変わらず着ている洋服。口ずさむことの多い曲。座ることの多いソファや部屋の場所。
146 多くの人の視線が注がれたものが価値を生む
人が視線を注いだものにこそ、価値というものが生まれる。たとえば、岩山の中にある石が貴重な宝石だとされるように。
人が眼をそむけたものからは価値は生まれない。
これほどに価値を創造する力を持つ人の眼。
150 行動に理由はない
たとえば椅子から立ち上がるとき、わたしたちは自分の脚がまだここにあるのかどうかを確かめたりしない。そして、いきなり立ち上がろうとする。
これがまさしく「行動」というものだ。
わたしたちが行動を起こすときはいつもそんなふうに、自分の状況や条件についてあらためて慎重に確かめたりはしないのだ。
154 才能が人にわかるようでは まだ薄っぺらだ
天才というのは、才能の最上級のレベルのことではない。
天才とは、才能といったことをすっかり忘れさせてしまうほど圧倒的な力のことだ。
才能が人目につくようならば、それはまだまだ薄っぺらなものだ。
155 天才は光を一点に集中させる
天才は光を持っている人だ。
ふつうの人々もまた光を持っている。その光の量と質は、天才もふつうの人もまったく同じだ。
しかし天才のほうは、その光をレンズで一点に集中させ、まばゆい光線にすることができるのだ。
156 時代の先行者は やがて時代に追い越される
時代の先を走っていることだけを売りにしている人は、いつのまにか時代に追いつかれ、やがては時代に追い越されてしまう。
165 ありふれたものに神秘を見出せ
多くの人は神秘的な印象を与えてくれるものが好きだ。そして、周りに溢れていて見知った事柄を神秘的だと思うことすらない。
だから、昨晩に見た夢について語り、感性について語り、美だの愛だの思想だのについておしゃべりをする。しかし、自分の部屋の机や鉛筆については少しも語らない。
どうしてだろう。ふだんから使っている机や鉛筆や枕や靴だって、夢だの愛だの感性だのと同じくらい神秘的ではないだろうか。そんなありふれたものもまた神秘的だということもわからないのだろうか。